.......

.......


<フライヤー表紙>

鐘下辰男  【クラウディア 奇跡の愛】より

佐々木蔵之介、斉藤由貴、高橋惠子、すまけい、小林勝也、山西惇、池内万作、村上大樹 他
東京公演 1/18〜2/5  大阪公演 2/14〜2/15
広島公演 2/17   愛知公演 2/21〜22
福岡公演 2/19 , 2/25〜26  仙台公演 3/1
..東京公演[世田谷パブリックシアター]
..2006/01/31

日本人青年:蜂谷弥三郎(佐々木蔵之介)と妻:久子(高橋惠子)は太平洋戦争の終戦を朝鮮で迎え、乳飲み子を連れて日本に引き上げようとしたその時、突然弥三郎だけがソ連軍に捕まる。潔白にも関わらずスパイ容疑をかけられたのだ。一方的な裁判での判決は「極寒の地・シベリアの強制収容所に10年間の服役」。捕まった日を境に家族は引き裂かれた。
失望の中、刑期を終えても日本に連絡を取る事も帰国も許されない弥三郎は久子と娘が生きているのか知る術はない。逐一ロシア当局に監視されていたが、強制収容所で修得した技術を元に仕事を始め、「生きていく為」にロシア国籍を取得した。やがて境遇の似たロシア人女性:クラウディア(斉藤由貴)と出会い、語り、励まされ、分かち合い、やがて結婚する。共に人生を歩き来た、その37年後にソ連は崩壊した。
弾圧の恐怖から日本に連絡が取れずにいた弥三郎の胸中を察したクラウディアは、「久子と娘は弥三郎の生存を信じ、帰国をずっと待ち続けている」という事実を掴み、弥三郎に伝えた。
50年間自分の帰国を信じ、女手ひとつで愛娘を育て上げ2人の孫にも恵まれた久子。
37年間ロシアで周囲の誹謗中傷に堪え、自分を支え続けた身寄りの無いクラウディア。
2人の女性のはざまで、弥三郎の心は揺れていたが・・・・。

初めて「実話」に基づいた舞台を拝見した。今迄観てきた舞台は総べて「作話」。フィクションという、作られた楽しさを受取るモノが私にとっての「舞台」であり「芝居」だった。
この舞台との出会いは、自分が「舞台」そのものを「どういうもの」として捉え、今後どう捉えていきたいか、考える良いキッカケだった。そして、そのスタンスが分ってきた。分ってきたからこそ、やっとこうして言葉を紡ぎ出す事ができたのだと思う。

蜂谷弥三郎氏の妻・クラウディアさんが書かれた著書を元に構成されたこの舞台は、数奇な運命を辿った3人の半生を綴ったものである。上記のあらすじでも判るように、戦争が家族を引き裂き、戦争が出会いを作り、戦争が最終的に美しいドラマを生み出した。
お話はとても切なくて悲しいモノ。やはり戦争というモノが、人を狂わせる事実を変える事はできない。強制収容所内における、同じ日本人同士の密告や略奪、マイナス40度の中での重労働、病人ですら放置され、死んだ仲間を土に埋めてやる事すらも出来ない(永久凍土の為穴すら掘れなかった)事が当たり前という環境。それぞれが生きる為に精一杯であるという、ギリギリの状態。
しかし、脚本/演出の鐘下辰男氏は『「戦争だから悲しいお話ね」と、それぞれの人々の人生を一括りにされることなく、それぞれが歩いてきた人生にスポットを当て、その中にあった楽しい事・悲しい事・励ましあった事、それぞれのストーリーを描きたい』として、この作品をまとめられたそうだ。
だから、演出や役の作りに戦争という嫌な重々しさや生々しいリアルさが無く、団体・群衆をイメージするダンスはとてもリズミカル且つポップな動きの創作的なモノで、音楽・照明においては所々強いイメージが残るものの、黒グロしいイメージは全く感じないモノだった。それゆえ、『蜂谷さんら3人半生』が鑑賞している自分自身の心に「ふわっ」と染み込んできたというのでしょうか・・・。う〜ん、上手く伝えられないから例え話なんですが、映画の「ネバーエンディングストーリー」ってあるでしょ? 主人公の男の子が本をめくってお話を読んでるのが「映像」になってるってヤツ。客席にいる自分が、その「ネバーエンディングストーリー」で本をめくっている男の子になったようだった。
そこに、屈しない精神力を持ち感情的にならない蜂谷さん役の佐々木氏、ずっと待ち続ける忍耐の久子さん役の高橋さん、そしてロシアに咲く向日葵のようなクラウディア役の斉藤さんの姿がある。周囲をすまけい氏らベテランが埋め、どっしりとして見えた。
そんな中、一番印象に残っているのは・・・・タイトル『クラウディアからの手紙』にもあるように、手紙を読むシーンがあり、その中でクラウディア(斉藤由貴)さんが、弥三郎(佐々木蔵之介)氏宛てに読み上げたこの一文。

「私は十分 あなたと幸せな時間を一緒に過ごせました。この後のあなたの時間は、50年一人で待ち続けた久子さんにあげて下さい。私は他人の不幸の上に私だけの幸せを築くことはできません。」

涙に詰まりながらも手紙を読み上げている斉藤由貴さんが、本物のクラウディアさんに見えた。著書がクラウディアさんなので、クラウディアさんから見えたストーリーだったけれど、必死になって朝鮮から日本に帰国し、女手1つでお子様を立派に育てられた久子さんにもドラマは絶対にある。
蜂谷さんが久子さんの待つ故郷に50年ぶりに帰ってきた時、その当時のニュース映像がスクリーンに映し出された。その映像を見守る「舞台上のクラウディア・弥三郎・久子」の3人が、がっちりと肩を組み合って、そのスクリーン映像を見守る背中も、印象的だったな。
ストーリーがストーリー故、泣きながら観ていたのだけれども、、、観終わった後、自分自身の中で「戦争がこんな運命を歩ませんダ!!!」というモノではなく「人を愛すると言う事は、なんて無限・無償なんだろう!!」と、人間の本来持って生まれた姿を見せつけられました。

ちょっと脱線しますが、私の世代で斉藤由貴さんといえば、「スケ番刑事」の初代役。そして、TDLではアトラクション(closed)「ビジョナリアム」の声優を勤めているというイメージで、「舞台女優」って感じがしなかったの。
←スイマセン(汗)
そんな印象だったから、今回のお芝居を拝見し、斉藤由貴さんの演技に脱帽しました。
斉藤由貴さんもこの役に入る時「本当にあった事をリアルに再現するならば、ドキュメンタリーを撮ったらいい。だけどお芝居で演じるという事だから、"斉藤由貴"というフィルターを通して、向日葵のようなクラウディアさんを表現できたらいいなと思う」とコメントされていた。
そうなんだよ。
「事の事実を伝える」ならば、当時の強制収容施設や当時の家等を紹介した「ドキュメンタリー映像」で良いと思う。でもね、今回はそれぞれの「その時のその年齢で感じた気持ちを表現」しているのだから「生身の人間が演じる舞台」で良かったんだと思うんだ。
そんな舞台には、必要最低限の舞台装置のみ。とてもシンプルで、オーソドックスな色と空間があった。
場面場面でも、必要最低限の「アイテム」のみが配置され、「床屋のイス」/「収容所で合図として鳴らされたエ型の鉄柱」/「サイドカーを引いたバイク」/「電話」など、無理にその時の情景を作り込み過ぎる事がない空間。
コレらも、この舞台に欠かせない「大切な要素」の1つだったと思っています。



.......